今日は、ブログを書く様になってからの気づきについてです。 

ブログ開設当初は、他の方もそうかもしれませんけれども、アクセスが気になってばかりいました。毎日管理画面で、いくつアクセスあるのかな、とチェックして。一日10PVくらいしかなく、しかもそのうちの半分は自分のアクセスのくせに、今日は二桁いった、なんて喜んでいました。まぁ、書いている内容も今読み直してみると、そう大したことが書いている訳でもなく、恥ずかしくて「勘弁してください」というのが正直なところです。 

それでも、「毎日更新」という自分自身への掟の威力は凄いものでした。はじめのうちは、自分の考えていたことを書くから、まぁ書けるんじゃないかな、なんて甘く考えていましたが、いざ、書き始めてみると、全然違っていました。 

パソコンを前にして、いざ書こうとすると、まったく書く内容が思いつかない。あれほど書けそうな気でいたのに、一体どういうことなんだろう、と随分と焦りました。 

要するに、考えていた積もりになっていただけで、そんなに大したことを考えていた訳じゃなかったということなんですね。その事実をまざまざと思い知らされたというわけです。 

それからというもの、毎日、今日は何を書こう、とプレッシャーを自分で自分にかけては、毎日書くためのネタを探してこなければならなくなったのです。これは正直まいった、と思いました。 

それから、少し生活が変わりました。といっても言動や行動が変わったわけではなくて、頭と時間の使い方が変わりました。どう変わったかというと、まぁ大した事ではないかもしれませんけれども、出勤時、道を歩いているときとか、仕事で一息ついた時とか、はてはトイレに行っているときとかも、記事やテーマについて、ずうっと考え続けるようになりました。極端な話、一人になれる時間があれば、それが全部考える時間に変わった、ということです。まぁ実際はそこまで極端ではないですけれども、そのような感じにはなりました。^^; 

これは、私にとっては、もの凄い変化でした。と同時に、如何に普段の生活で何も考えていなかったか、ということにも気付かされました。 

やはり、"本を読んでいる"と、"考え続ける"との間には大きな隔たりがあるのです。確かに、本を読んでいるときに、気になった箇所で少し立ち止まって、これは要するにこういうことだな、とか、これはあれと関係していそうだな、と思うことはありました。だけど、それはただの感想にしか過ぎなくて、「思考」とは別のものなのですね。今にして、しみじみそう思います。 

本を読んでいる最中に思い浮かぶことは、やはり「思いの断片」であって、思考ではない。思考には一連のストーリーがあって、命題から結論へ導く道とそれを支える理由やデータが必要です。そこまで練り、ひとつのストーリーに仕立て上げて、ようやく「認識」が出来上がるのだと思います。 

今にして思えば、当時の焦りも単純に勉強と蓄積が足りなかっただけのことだと思いますけれども、当時はそれが分かっていなかったのでしょう。勿論、今でも全然足りていないのですけれども、足りていないと自覚できている分、当時よりはマシなんじゃないかと思っています。 



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