今日は文章について。 

私は、他の人がどうやって文章を組み立てているのか、とても興味があります。 

テーマをどう決めるのか。書き出しはどうするのか。ストーリーの展開や構成はどうするのか、などなど興味は尽きません。 

尤も、私は小説は書けませんので、もっぱらブログで言いたいことを書き散らしているだけなのですけれども、どちらかといえば、文章はロジカルに書くべきだという意識が強いので、論理の繋ぎ目となる接続詞を多用する癖があり、とてもクドイ文章ではないかと思っています。 

だから、逆にいえば、詩的な文章を書ける方を尊敬しているのですね。 

私のブログの記事には、時折、記事の最後に詩をつけていたりしていますけれども、あれは、歌詞とか、アニメのセリフから引用しているだけですからね。記事の内容と歌詞がよく一致するものを探して一部抜粋したりして載せますけれども、載せるたびに、よくこんな言葉を使うことを思いつくよなぁ、と感心するのです。 

ちょっと敵わない感じです。 

いくつかの記事では、そうした詩に自分の詩をくっつけたことがあったのですけれども、自分の書いた部分だけ浮いてしまって、違和感ありまくりでした。こりゃ駄目だな、と。 

たとえば、これ。 

「空を見上げる瞳に映る日本」 

この元ネタは2009年に放映されたアニメ「空を見上げる少女の瞳に映る世界」という異次元ファンタジー調の作品ですけれども、特に最終回にかけてのセリフが詩的だったので、これは使える、と。 

それで、セリフを引用しながら、詩として最後につけたまでは良かったのですけれども、調子にのって、頭の部分に自分の詩をつけてしまったのです。これが駄目駄目でした。 

具体的には、こうです。  



炙り出される サヨクの正体 

現実の大地から 日本を守らんとする人たちと 

古ぼけた理想に 現実を捻じ曲げんとする者たちと 


ぶつかりひしめき合う 

こころに描く未来 

みんなが望む未来 

紡ぎだされる未来

以上、筆者の詩 




知ること 

逃げること 

立ち向かうこと 

求めること 

迷うこと 

信じること 

許すこと 

諦めないこと 

愛すること 

この部分は、実は「空を見上げる少女の瞳に映る世界」の1話から最終話までの題名です。 




世界が 人の行動から生まれたのなら 

行動(それ)を変えれば 世界は変わる 

世界が 人の意思から生まれたのなら 

意思(それ)を変えれば 世界は変わる 

世界が 人の心から生まれたのなら 

こころを開けば 世界は変わる

この部分がまた筆者の詩 




人を石に閉じ込めて 心を黙らせたって 未来は拓けない 

人の想いを犠牲にして 救える未来なんてない 

どんなに世界の姿が変わったって 捨てていい心なんてない 

だから 心を守る 

世界を守るって 本当は誰にだって出来ること 

何かを犠牲にしなくても できること 

それは自分の心を守ること 

大切な人を守ること 

諦めたり 捨てたりしないこと 

未来が失われるなんて決してない

この部分は「空を見上げる少女の瞳に映る世界」最終話、主人公ユメミのセリフから引用。 
 
↑の1:20あたりから。 


で、自分の詩について一言でいうと、硬い。ゴツゴツです。最後のユメミのセリフの柔らかさと較べて、全然だめです。これが感性の違いなのか、と愕然としましたね。 

数学者で、新田次郎の息子でもある、藤原正彦教授は、数学の傍ら、幾つかのエッセイを書かれていますけれども、何かの本で、数学をやったあと、文筆をしようとすると、頭を切り替えて、文学の領域に移るのに一週間以上かけて橋を渡るのだ、という風なことを書いていたように記憶しています。 

そのとき、純粋論理の数学と、感性豊かな文学の世界では物凄いギャップがあるのだな、と感じたのですけれども、その意味では、ゲーテのように哲学者と詩人が同じ人物なのは、ちょっと信じられないですね。 

・・・、今日の日記は使いまわしできそうです。ブログのネタが尽きたときにでも・・・(笑) 



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